二人の会話は次々に切り替わっていった。
最初に話していたのは今日の「ソードオブムーン」の戦いの感想、反省といった真面目なものだ。ギルドの最古参であるエマはギルドの作戦や計画を立てる中心の一人でもある。
エマ曰く「今後の参考にするから、気づいたことあったら何でもいって」。
無論、アークに異議はない。承諾して、彼なりに気づいたことを話していった。ヴィーザード隊の火力効率と配置、各隊の進撃順序、指揮系統の若干の不安など。
しかし、それらを一通り話してしまってからは、脱線に次ぐ脱線、乗り換えの連続だった。
このバーの店主が隠れて拾ってきた猫の世話をしている話から、別の強豪Gvギルドに起きている揉め事の話。狩りで得た希少品の話から、最近ついてないとかの愚痴。
話がどう移り変わっていったのか、どこから切り替わったのか、時々二人で悩んでいたが、エマは早々に辿っても意味はないと結論してしまい、アークも結局それに習った。
そして――
「……それでね。クリスったら『興味ない』の一言で終わりなの。冷たいよね」
「はは。いえ……それはクリスさんの自由ですよ」
「むー……確かにそうなんだけど……」
膨れるエマを他所にアークは時計を見ていた。
バーの柱の時計は、店の主人と同じように黙々と時を刻みつづけている。
針の示す時刻は深夜になろうとしていた。
二人とも酒をだいぶ飲んでいる。特にエマはあれからワインに続き、カクテルを次々に開けている。間違いを起こさぬためにも、そろそろ引き上げなくてはならない。
そう考えて、アークは席を立とうとした。
「それで、さ。いつクリスに……いえ、ギルドマスターに話すの?」
その言葉は如何にもエマらしく、自然に、何ということでもないように彼女の口から発せられた。会話の流れの中に没してしまいそうな何気ない質問。口にしたエマ自身、そう望んでいたのかもしれない。
しかし、その言葉はアークの体内のアルコールを飛ばし、席を立とうとする体を止め、なおあまりある威力を示すものだった。
アークの顔は紅潮から、一気に青白いものへと変わる。
「……図星、ね。当たってほしくないことほど、よく当たる……か」
拗ねたようなエマの声は、しかし、アークにはあまり聞こえなかった。
数秒の沈黙の後、先に口を開いたのはアークだった。
「……なぜ、わかったんです?」
エマは、グラスを置いてそっと懐にある杖を触った。
「何となく……かな。これでも長くあのギルドにいるんだもの。わかっちゃうんだ」
彼女はそういって小さく舌を見せて笑った。悪戯っぽい仕草のそれは、どこか生気に欠けていた。
舌と笑顔を引っ込めて、エマは目の前にあるグラスを見つめながらぽつりとアークに訊く。
「ギルド……抜けるのね?」
アークは俯いて黙った。
再び沈黙が訪れた。
静寂よりも遥かに深いそれは、長いようにも短いようにも感じられた。
柱時計の針はゆっくりと進み、やがて、震える声で、かすかに、だがはっきりと、
「はい……」
とアークは答えた。
時が止まったようなカウンター席で、先に口を開いたのはエマだった。
「そっか……」
エマはグラスを持ち上げて、残ったカクテルをくっと飲み干してグラスを置いた。それは雑な動作で、先ほどまでのどこか優雅な飲み方ではない。
何かを吹っ切るための、それはエマの儀式だったのだろう。
「……マスター、ごめんね。雑な飲み方して」
「いえ、お気になさいませぬよう。おかわりはお持ちいたしますか?」
「ううん、今はいいわ」
「わかりました。では、お下げします」
マスターは黙々と空のグラスを持って、そのまま奥へと消えていった。
それを見届けて、エマは口を開いた。
「理由、聞いてもいい?いいたくないなら無理には聞かない。でも……」
彼女は苦笑いしたが、それは本当に苦さを感じさせた。
「私に話せないようじゃ、クリス相手はもっと辛いよ?予行演習ってことでどうかな?」
再び沈黙。
「……わかりました。お話します」
やがて、アークは顔を上げ、重い口を開いた。
「……俺が入って来た時のこと、覚えてます?」
「うん。確か、臨時で会ったエミィの紹介だったよね。」
臨時とは、知らない冒険者同士で組んで狩りにいくことである。特定の仲間を持たぬ冒険者たちが主に利用するもので、たまに仲間内の都合が合わずに暇を持て余したギルドの者も参加することがある。
エミィは「ソードオブムーン」のメンバーで、たまたま臨時に行った時にアークに出会い、その実力を見てギルドへと誘ったのである。
「はい。その時、俺は一つ嘘をついたんです」
「嘘?」
「無所属だ……って。でも、俺本当は、あるギルドに所属してたんです」
「うん……」
「『泉の妖精』っていう六人くらいの小さなギルドでした。Gvには何の縁もない、ただのギルドです」
アークは目の前にあるグラスを見たままに話を続ける。
二人とも視線を合わそうとはしなかった。
「別に強くなろうとか、あの頃は思ってなかったんです。でも、ある日……」
あの日、アークは砂漠の都市モロクの南西にある、ピラミッドと呼ばれる古代遺跡の中にいた。特に目的があったわけではない。ただ、仲間が集まったので狩りに行こうという話になった。それだけだ。
集まったのはアークを含む「泉の妖精」の五人。プリーストの女性が二人、騎士の男が一人、ハンターの男が一人、そしてウィーザードの彼だった。
狩りはいつもと変わらず、和気藹々としたものだった。
ところが、思いもよらぬ敵に遭遇した。冒険者たちの間で「BOSS」と呼ばれるモンスターが彼らに襲いかってきたのだ。
「オシリス……ね」
「はい。BOSSなんて見るのはじめてで、それでも気がついた時には もう避けられなくて、戦ったんです」
「オシリス」とは、ピラミッドに葬られた古代の王とされるモンスターである。見かけは、同じくピラミッドに葬られた奴隷とされている「マミー」と呼ばれる死者達と大差はない。だが、その膂力と耐久力は「マミー」は比べるべくもない強大なもの。加えて、「イシス」と呼ばれる上半身が美女で下半身が蛇のモンスターや「エイシェントマミー」という「マミー」の上位種を常に従えている。
まさにピラミッドの王と呼んで差し支えのない怪物であった。
「何とかうまくいってた。後もう少しで倒せたんです……」
アークは今でもその時のことを覚えているのか。彼は奥歯を噛み締め、かすかにギリと音が鳴った。
騎士の男がオシリスを止め、ハンターの男がそれを射抜き、アークは天から召還した隕石をもって怪物の従者どもを薙ぎ払った。二人のプリーストは精神力の消耗で顔面を蒼白にしながらも、瞬く間に瀕死の重症を負う騎士を必死に癒し続けていた。
明らかな苦戦。
しかし、聖水を帯びた剣撃、退魔の力を宿す銀の矢、燃え盛る隕石、それらを幾閃、幾本、幾撃とも知れぬ数を浴びたオシリスは次第にその動きを鈍らせていた。
「あと少し……っ!!」
アークと仲間たちの誰もがそう思って、最後の力を振り絞った。
しかし……それは突然に起きる。
どこからともなくペコペコと呼ばれる騎乗用の駝鳥に跨り、オシリスへと駆け寄った騎士は何の躊躇いもなくその手に握った槍を突き出し、怪物を突き飛ばした。スピアスタッブと呼ばれる槍騎士の技。騎士の膂力と突進力を持って、敵を跳ね飛ばす槍技である。
怪物は突き飛ばされつつも殺意を失うことなく、着地し――
その側にはアークの仲間である二人のプリーストがいた。
悲鳴を上げる暇も逃げる暇もなかったに違いない。
アークより一つ年下のプリーストの少女にオシリスは狙いをつけ、疾風の如く踏み込んだ。
大気を切って唸る、怪物の豪腕。
だが、豪腕の前にもう一人の女プリーストが立ちはだかった。
理由など一つしかない。
なぜなら、彼女は「泉の妖精」のギルドマスター。ギルドメンバーを守るのは彼女にとって当たり前だったに違いない。
我が身を犠牲にしてでも――
女プリーストは紙できているかのように腹部を引き裂かれ、弾き飛ばされた。
血を撒き散らして飛んだ体は、背後にいる少女を巻き込み、床に叩きつけられた二人は動かなくなる。
仲間の騎士が絶叫した。彼はそのままオシリスに突っ込んでいった。ハンターも矢をつがえる……きつく絞られた弦を染めるのは彼の血。だが、彼は痛みなど忘れていただろう。アークも即座に詠唱を開始する……詠唱は怒りで途切れがちだった。
だが、傷ついてなおオシリスは怪物であった。
プリーストの二人が倒れた今、癒しを受けられなくなった騎士ではそれを止められるはずもない。鎧を砕かれ、兜を割られ、全身を血濡れにした騎士が重い音を立てて崩れ落ちると、続けて怪物はハンターへと迫った。
決死の覚悟で放たれた矢は、オシリスの体を深く穿ったが怪物は倒れない。豪腕が振るわれ、ハンターは錐揉むようにして宙を舞う。その手足はありえぬ方向に曲がっていた。
そして、オシリスはアークへと迫ってくる。
死を覚悟して詠唱を開始したが、オシリスが彼に触れることはなかった。
アークが最も望まぬ、救いの手が差し伸べられたからだ。
「死んだ方がどれだけ……よかったわからない」
振り絞るようにアークは言った。
オシリスを突き飛ばし、アークの仲間たちを全滅へと突き落とした槍騎士の男。男とその仲間と思しき冒険者たちが、オシリスを止めた。
先頭に立つ槍騎士の耐久力は、アークの仲間のそれを遥かに超えていた。
閃光の如く放たれる矢の速度も、アークの仲間のそれを軽く凌駕していた。
風のように紡がれる詠唱も、アークのそれを完全に抜き去っていた。
オシリスは、怪物は、あの脅威が嘘だったかのように……あっけなく塵と化して滅んだ。
オシリスを倒した冒険者たちは皆、衣服の一部に一つの紋章を刺繍していた。
そこにギルド名も入っていた――「真紅の天使」。
「真紅の天使」のメンバーたちは、睨みつけるアークも倒れ伏すアーク の仲間たちも眼中にないかのように、ワープポータルと呼ばれる転送魔方陣を発動させた。
一人、また一人と光の中に消えていき、プリーストと槍騎士だけになって、「真紅の天使」の槍騎士がようやく気づいたかのようにアークに目を向けた。
だが、槍騎士は何もいわず、ただ見て、ただ――
笑みを浮かべていた。
「真紅の天使」は去り、アークと倒れ伏す仲間だけがその場に残された。
その後、通りがかった別の冒険者たちの手でアークの仲間たちは救われた。瀕死の重傷を負った三人も蘇生術で救われた。少女のプリーストは軽症で済んだ。
しかし、彼らのギルドマスターには小さいとはいえ、腹部に消えない傷が残った。
「何、傷の一つや二つ。気にすることはない。」
彼女はそういって剛毅に笑った。
アークはその日……一言も言葉を口にすることはなかった。
「『真紅の天使』……うん、『アレ』ね」
形のよい眉を寄せて、エマはいった。
「ほとんどのGvギルドから嫌われて、仲間同士の内紛で潰れた『アレ』……私がいうこともないか。君の方がわかってるもの」
「……はい」
「でも、アーク君が『ソードオブムーン』に入る前に『アレ』はすでに消滅してた。なら、どうして?」
「……強く、なりたかったんです。単純ですね」
アークは笑った。それは力のない、弱々しい笑みだった。
その時から、アークは「強くなろう」と思った。
あの憎き槍騎士が来る前にオシリスを倒せていれば、あんなことにはならなかった。
だから、彼は倒せる「強さ」を求めた。
アークは一人、狩りや臨時に励んだ。少しでも強くなるべく、狩りを通じて技術を力を高めた。彼はめきめきと実力を上げていった。
だが、アークの仲間たちは違う。彼らには「強さ」への渇望はないようだった。だから、すぐに彼の実力に仲間たちはついていけなくなった。 アークはそのたびに立ち止まらざるを得ない。
過ぎていく平穏な日々は、真綿で首を絞めるようにアークを焦らせた。
しかし、仲間に「強さ」を求めるよう強いることもアークにはできない。
そして、気づいてしまった。
このまま「泉の妖精」にいたら、強くはなれない。
認めたくない事実に、アークは迷った。
でも、その迷いを吹き飛ばすように、歩みを急かすかのように、アークの前に道は開いた。いや、開いてしまったというべきなのか。
その日、臨時で会ったエミィという名の女ハンターはアークに訊いた。
「アーク君。よければうちに……『ソードオブムーン』に来ない?」
「え?」
「あー……でも、ギルドあるなら無理にとはいえないか。気が向いたら連絡してよ」
その頃、すでに「ソードオブムーン」はGvギルドとして名が聞こえていた。悪評はほとんどなく、わずかにあるそれは妬みや中傷の類に過ぎない。むしろ、隆盛著しいギルドの一つとして期待される勢力の一つであった。
「そこに来ないか?」とエミィはアークに訊いているのだ。
迷うべきだったのかもしれない。
だが、有力なGvギルドのほとんどはあまり外部の者を入れない。メンバーの人間関係、実力などを総合した組織の質とでもいうべきものの劣化を嫌うからである。そのため、Gvギルドが誘うのは「どういう人物か」を把握できる相手にほぼ限られるといっていい。すなわち、そのGvギルドのメンバーの友人や知人であるといった人脈を有する者でな ければ、入るのは難しい。非常に狭き門だった。
だから、アークの得た道は希少なものなのである。
そして、その道は決して保障されたものではなかった。エミィは「連絡して」といったが、その席が確保されることはないだろう。名の知れた「ソードオブムーン」である。アークに変わる者などいくらでもいるといっていい。
この機会を逃したら――
「いえ、俺。無所属ですから大丈夫ですよ。今のギルドはたまたまいるだけですし」
「え、そうなの?うん。じゃあ、ギルドマスターに紹介するから、明日連絡するね!」
咄嗟に出た心無い嘘。
それには気づかずに、エミィは笑顔で去っていった。
「……これで、強くなれる」
つぶやいた言葉は力がなかった。
アークはそのまま「泉の妖精」の溜まり場へ向かった。荷物を取るためである。
幸い仲間は狩りにいったのか、誰もいなかった。手早く荷物を纏めて、簡単な置手紙を残す。仲間が戻ってくる前に去ろうと、アークは荷物を持ち上げて溜まり場に背を向けた。
でも、アークの足は止まる。彼の目の前には、いつの間に戻ってきたのか、ギルドマスターの女プリーストが立っていた。彼女の顔は普段のままの毅然としたものだったが、心持ち厳しい面持ちだった。
あの狩りの日からアークが変わったことを、女プリーストは察していたのだろうか。
何もいえず立ち竦んだアークの前で、彼女の口から出たものは制止でもなく、詰問でもなく……ただ、一つだけの問いかけだった。
「この選択に、後悔はないのかい?」
「……はい」
意志を固めアークが頷くと彼女は少し笑って、
「わかった。それなら止めない。だけど、もし後悔したようなら戻ってきな。お説教つきだけどね」
そういって手も振らずに背を向けた。
彼女が振り返る前に見せた笑顔。いつも気丈だった彼女らしからぬ寂しげな笑顔。
それはアークが今まで一度も見たこともないもので、彼は胸に痛みを覚えた。
でも、アークの足は動き出す。
カツン、カツン……
午後の首都のプロンテラ。その一角で、靴音だけが石畳に響いた。
P004 月凍える夜に / 2005-04-18 (月)
P006 月凍える夜に / 2005-04-18 (月)
時計を見ると、針は頂点を過ぎていた。
「今日までお疲れ様、またね」
「本当にありがとうございました。また」
エマはいって椅子に留まり、アークはいって席を立った。
それはとても別れには見えない。和やかな風景。
「クリスには話を通しておくから、胸を張っていくのよ。いいわね?」
「何から何まですみません。エマさんは?」
「私はもう少し飲んでいくから」
「わかりました。では……あまり飲み過ぎないでください」
「心配しないでよろしい!じゃあね」
エマが手を振り、アークは歩き出す。
アークは入り口の近くまで歩いて振り返った。
エマはすでにカウンターに向き直り、カクテルグラスを傾けている。
アークはその横顔に何かを見たのか、言葉をかけようと口を開きかけ……
唐突に店の扉が開き、三人の冒険者たちが入ってきた。
その先頭には、黒く艶のある長髪を後ろで一つに纏めた女騎士。
女性にしては背が高い。だが、それも美しさの要因の一つとすべきだろう。
目は切れ長で瞳は黒く、眉は細く柳刃のように鋭い。唇はすっと引き締められていた。
短めのスカートから覗く太股と、袖のない肌着から伸びる二の腕。褐色の肌は艶があり、贅肉はなく、かといって柔軟さも失ってはいない。
頭には兜、体には甲冑、足には鉄のブーツ、首にはロザリオ。色はいずれも銀。腰には見事な意匠が施された剣を下げている。
彫刻家が一生をかけて彫り上げた騎士像のような、硬質の美がそこにはあった。
ただ、くわえたパイプ煙草が少し不似合いだろうか。異彩を放っている。
具足が重い音を響かせて通り過ぎていくと、その後ろに二人の男が続いていた。
一人は、金の髪に帽子を載せた男のプリースト。
黒字に鮮やかな刺繍を入れた司祭服の胸元は開いており、鍛えられた胸筋の上には首から下げられた銀のロザリオが光っている。
口にくわえられた草の葉。片眼鏡の奥の目は冷たく、表情も同じく怜悧。その衣服の着こなしと合わせて、近寄り難さを感じさせる男だった。
もう一人は、青く染められた長髪を後ろで束ねた男のハンター。垂らされたもみ上げは、お洒落の意識を感じさせる。
動きやすさを重視したハーフシャツとベスト、そしてハーフズボンは、分厚い皮でところどころ補強された丈夫なものだ。背中に弓を背負い、腰には矢筒を下げていた。
職業柄の薄着とはいえ、この季節では堪えるのだろう。
「うー……さみー」
とハンターは呟き、手をすり合わせながら入ってきた。
アークは思わず固まった。
女騎士の名はクリスことクリスティーナ・ウィンゲート。「ソードオブムーン」のギルドマスターだ。二人の男もアークの知る顔であり、「ソードオブムーン」のメンバーだった。
しかし、幸か不幸か。アークが影になる位置に立っていたためだろう。三人はアークに気づくことなく、エマの方へ歩いていく。
「ここにいたか、エマ」
「ん?……あ、クリス」
背後から声をかけられたエマは、声でクリスとわかるのか。あまり驚いた様子も見せず振り返り、そして噛み付いた。
「どこいってたのよ……散々探したのに」
「すまん。他のGvギルドとの会合が長引いてな……」
クリスの声は華麗な響きを持っていたが、言葉遣いは男のそれだった。彼女の雰囲気にそれはよく似合っていたが。
「参謀がいつの間にか消えたからな。苦労した」
じろりとエマを睨むクリス。
「う……なら仕方ないか。お疲れ様、ギルドマスター」
かすかに顔を引きつらせ、笑ってクリスを労うエマ。明らかなごまかしだ。
しかし、慣れたことなのか。クリスはそれには構わず、訊いた。
「……まあ、いい。それよりもエマ。狩りに誘いに来たのだが……お前にしては珍しいな。一人で飲むのは嫌いだと聞いていたが」
「ああ、それはね……ちょうどいいから話すかな。あのね……」
アークがまだいることに気づいているのかいないのか。
エマは要点だけを纏めて、アークが脱退する旨をクリスに報告した。
「そうか……アーク・ウィンステッドが脱退か」
腕組みをするクリス。
「残念だな。頼りになる男だったが……」
「うん……」
エマもわずかに俯く。
そこへ声が割り込んだ。クリスの後ろに立っていたハンターの男だ。
「戦力的には問題ないっすよ。ウィーザードは他にもいるし」
その軽い声に、クリスは「瞳を閉じて」一言答える。
「……そういう問題ではない」
「ええ。でも、最近あいつ、明らかにやる気なさげだったし」
「レンツォ……やめろ」
気づかないハンターの男――レンツォを、横に立つプリーストの男が止めた。
しかし、レンツォはそれをも無視して続ける。
「どうせ、狩りとか人間関係か何かの嫉妬だろ……そんなのいても士気落ちて迷惑だし、いなくなってせいせいするっても」
「黙れ」
すでにレンツォの首筋には、クリスの剣の刃が当てられている。
キィィン……という鞘鳴りは今更のように聴こえた。
「私は陰口が嫌いだ。それに、陰口は人に聞こえぬ影でいうものだ……違うか?」
表情は変えず、淡々としたクリスの言葉。
レンツォの顔は瞬く間に青ざめ、首を振ることすらできない。
「確かに、アークは貴様にどういわれようと言い訳はできまい。だが、貴様が知りもせぬアークの胸の内をみだりに語り、貶めることは許さん。彼は仲間なのだからな。それが礼儀というものだ……わかったか!」
クリスは一喝した。
それは大きな声ではなかったが、切りつける以上の迫力と響きがある。
レンツォは額から幾筋もの汗を流し、固まっていた。
「……ギルドマスター、その辺で。レンツォも自身の過ちを悟っています」
プリーストの男が静かに間に立つ。
わずかの間の後。
「……わかった。怯えさせてしまったか。私も言葉が過ぎたようだ。許せ、レンツォ」
クリスはいって、剣を収めた。
答えることもできないレンツォは、腰を抜かしていないのが奇跡という有様だ。
ここにきて、ようやくクリスはかすかに眉根を寄せた。
「ふむ……エマは酒が入っていても問題はないが……」
「ん。私もちょっと気分じゃないから。ごめんね」
エマが拒否するのを聞いて、クリスは額に手を当てる。
「……となると狩りは取りやめだな。二人にはここまで来てもらって悪いが……」
「了解。それでは、我らは溜まり場に戻りますが……ギルドマスターは如何されます?」
まだ口も聞けぬレンツォに代わってプリーストの男が訊いてくる。
「私も少し飲んでいくことにしよう。エンクロイ、レンツォ、わざわざすまなかった。この埋め合わせはする」
「いえ、お気になさらず」
頭を下げたクリスに、エンクロイと呼ばれたプリーストの男は礼を返すと、
「レンツォ。行くぞ」
レンツォの肩に手を置き、連れ立って酒場を出て行った。
アークの近くを通り過ぎていく時、ふとエンクロイは顔をアークの方に向けた。
エンクロイの表情はバーに入った時から少しも変わらず、怜悧なものだ。
身を強張らせたアークの前で、その口がわずかに動く。
「さらばだ」
唇はそう動き、声は発せられなかった。
呆気に取られるアークには構わず、エンクロイは返事を待つことなく、レンツォは気づくこともなく、バーを出て行く。
「マスター。先ほどの狼藉、申し訳ない。謝罪代わりといっては難だが……いつものやつを頼む」
「いいえ、お構いなく。畏まりました」
声のした方にアークは向いた。
カウンターに座ったクリスが老人にオーダーをする隣、エマはわずかに顔をこちらに向けて手を振っている。
アークはその姿を見て、何かを言おうと口を開きかけ……ただ頭を深く下げた。
そして、彼女に背を向けて今度こそバーを後にした。
さすがに時刻も時刻。日付の変わった街は静かだった。
通りがかる冒険者もだいぶ少ない。
カツン、カツン――
アークの靴が石畳を叩く音だけが響いていた。
この夜、エマと出会う前以上のの静寂が彼を包み込む。
「……ふぅ」
アークは明日にも「ソードオブムーン」を去り、元いた「泉の妖精」へと帰る。
言葉すれば簡単なそれは、寂しさと不安とを彼の心にもたらした。
それはため息となって口を出る。
でも、エマは彼にいった。
「こら、謝るんじゃない」「堂々といくのよ。いいわね?」
アークが逆立ちしてもかなわないだろう彼女の言葉。
強さの醜さに怯え、別れの辛さに寂しさに苦しんで、それを乗り越えてきた彼女の言葉。
今の彼には到底かなわぬもの。
だけど、
「がんばるしか……ないよな」
気がつくと曲がっていた背筋を伸ばして、アークは夜空を見上げる。
そこには、巨大な塔の影を離れた白い月。
星々を真円に隠し、眩い光で圧し、空へと飛び立つ姿があった。
「……よかったのか?」
クリスはカクテルグラスを傾けつつ、隣に座るエマに尋ねた。
「何が?」
聞き返すエマに、クリスは彼女にしては珍しく逡巡を見せた。
だが、やがて、意を決したようにグラスを置いて言った。
「アークだ。彼は、こういっては失礼だが……一陣の」
「確かに失礼ね。怒るわよ?」
膨れるエマ。赤い瞳は笑っている。
だが、割り込むように発せられた答えは、その先をいうなといっていた。
クリスは苦笑する。
そして、ぽつりと零した。
「……辛いなら、抜けてもいいのだぞ?」
その言葉は一見突き放したもの。だが、クリスという女には珍しい、強い響きのない声だ。
苦さと温かみをもった声。
「わかってないわねー……全く腐れ縁なのに、嘆かわしいわ」
しかし、答えたエマの言葉と態度も意外を通り越してひどいものだった。
額に手を当てて、首を振り、悩ましげにため息をついてみせる。
さすがにクリスもむっとしたのは、無理もなかっただろう。
「あのな……私はお前に」
「い・る・の・よ。もうアーク君にはいるの」
またしても割り込むエマの声。
だが、それを聞いたクリスは頷くと、なぜか笑みを浮かべた。
かすかに唇を吊り上げた、意地の悪い笑みだ。
「なるほどな。『銀の魔女』殿は、自分が一番じゃなければ納得できぬ というわけだ。アークもこうなると哀れだな。さぞや、策略と魔性に踊らされたのだろう」
そして、くつくつと笑う。
「うるさい『黒き雌豹』!そういうあんたは、鉄の女じゃないのー!」
「声が高いぞエマ。マスターに怒られる……それに、確かに私はあまり男に興味はないからな。事実をそのままいわれても、たいして堪えん」
ニヤリと笑うクリス。
膨れていたエマはそれを見て、おとなしくなる。いや、脱力した。
カウンターに肘をついて赤い瞳を閉じ、手で美しい銀髪をかき毟るようにして呻く。
「……まったくー……これだから」
柱の時計はそろそろ午前1時になろうとしていた。
クリスが立ち上がる。
「む……と、そろそろ閉店時刻だな」
「あ、そうね。マスター、勘定を」
しかし、カウンターの端でグラスを磨いていた店主の老人は静かに首を振った。
「時刻でしたら、お気になさいませぬよう」
「え、でも……いいの?」
戸惑うエマ。確か、老人は時間厳守だったはずだ。エマも何度か追い出されたことがある。
老人はいう。
「今夜はいい夜です。時と酒は似ています……ごゆっくりどうぞ」
そして、一礼して下がっていってしまった。
「……ふむ。ならば、ご好意に甘えるとしようか」
クリスは席に座りなおす。
「そうね……」
エマもそういってその隣に座った。
二人は語る。
「次の戦はどこを攻めようか?」
「んーそうね。やっぱりゲフェンのどれかかしら?ワインも美味しいし」
「やはり、そうだろうな。プロンテラにも行ってみたいものだが」
「ええー?あそこは強い勢力もいないし、あんまり……」
「いや、砦じゃない」
「ん?」
「プロンテラ王城だ。ルーンミッドガッツ軍がどの程度か見てみたい」
「あはは。無理だけど、おもしろいかもねー」
……
夜は刻一刻と過ぎていった。
アーク・ウィンステッドのその後はわからない。
「泉の妖精」へ帰れたのか。そして、「泉の妖精」の人々と共にあり続けたのか。
それとも再び強さを求めたのか。そして、旅立ったのか。
「黒き雌豹」クリスティーナ・ウィンゲート。
「銀の魔女」エマリエル・クリューウェル。
二人の率いる「ソードオブムーン」はその後もGvギルドであり続けるのだろうか。
その中心に彼女たち二人は在り続けるのか。
定かではない。
人々の記憶に長く刻み付けられるであろう、その名も風化していく。それが栄光によるものか衰亡によるものか、勇名となるか汚名となるかもまたわからない。
ただ、時は流れ、人は出会い、別れる。
手を取り合って戦った仲間、杯を交わして語り合った友も、永遠ではありえない。
だが、共に在った時は、過去の確かな事実として残る。
夜空の元、寒さに凍える剣たちも主人たちと変わらない。
いつかその鋭利な刃も欠け、鋼鉄の身も折れ、美麗な柄も埃に塗れるかもしれない。
主人の手を離れ、或いは野に打ち捨てられ、或いは新たな主人を得るかもしれない。
ただ、勝鬨の響きと勝利の栄光の記憶だけを身に刻み、それすらも薄れていき消える。
だが、篝火の熱と光。ある主人の傍らにあったこと。
温かみを感じ、誇らしさに輝いたその夜は、過去の確かな事実として残る。
今は夜空の元、主人の寝覚めを待つ剣たち。
忠臣たちはやはり何も語らぬまま、次の朝を、次の戦を待っていた。
FIN
P005 月凍える夜に / 2005-04-18 (月)
「……」
「……」
話が途切れてしばらくの間、エマもアークも無言だった。
やがて、アークがぽつりと訊く。
「……俺は望みどおり強くなれたと思いますか?」
「……うん。元からスキルにうるさいエミィの推薦だったからね。来た時から十分だったけど、それでも今よりは劣るかな」
「……ありがとうございます」
その感謝の言葉は何に向けたものなのか。アークの上達を誉めたエマに対してか、それとも、アークを迎え、鍛えてくれた「ソードオブムーン」全員に対してなのか。
発したアーク本人もよくわからなかった。
アークは、懐に入れた右手でそっと「骸骨の杖」を握り締めた。彼が このギルドに来た時にはなかったもの。手に入れた力の一つ。
「でも……」
アークの言葉は途切れる。その後に続くのは理由と呼べるものではない。エマや「ソードオブムーン」の仲間を納得させることもできなければ、アーク本人すら無理だろう。
だから、これはきっと、こういうことしかできないもの――
「泉の妖精」のギルドマスターが口にした「後悔」。
「あーあ……彼もそうだったっけ」
エマはぼんやりという。その声の響きは柔らかいようでいて棘があった。
「……うん。思い出話のお返しってわけじゃないけど、私の話も聞いてくれるかな」
「え?」
「ふふ、君によく似た彼がいたのよ……ただ、彼は何も話してくれなかったけど」
エマはかすかに笑う。
「思い出しちゃったから、話してもいいかな……?」
「……はい」
アークに断ることはできない。
エマが見せた笑顔は、彼が午後のプロンテラで見たものと似ていた。
「ずいぶん前にうちにいたアサシンで、名前は一陣っていう彼なんだけどね……」
それは「ソードオブムーン」が創設されて、そう間もない頃だ。
エマことエマリエル・クリューウェルは、創設者である「ソードオブムーン」ギルドマスターのクリスティーナ・ウィンゲート――クリスとは古くからの友人である。だから、クリスがギルドを立てた日から、当然のようにエマも「ソードオブムーン」の一員となった。
だが、強い冒険者たち、そして彼らが構成するGvギルドがひしめく砦の争奪戦において、一つのGvギルドが頭角を現すまでは容易ではない。
人を集めなくてはならない。十人かそこらでは押し寄せる他のGvギルドに太刀打ちできようはずはないからだ。
武具や装備を整えねばならない。生半可な武装では、強固な鎧を纏った相手にはかすり傷一つ負わせられず、強者が蠢く戦場では生き残れないからだ。
資金を用意しなくてはならない。戦場で消費される回復薬、物資は膨大である。十万ゼニー程度では、一度の戦いすらしのげないからだ。
国王が触れを出す以前より、地力を蓄えていたギルドならともかく、駆け出しのGvギルドはそれらの土台から作らねばならない。しかも、駆け出しのGvギルドが必死に戦力を築いている間に、強豪もまたその戦力を高めているのである。
クリスとエマの二人が「ソードオブムーン」を伸し上げるべく、どれほどに東奔西走したかは、おそらく同じ経験を持つGvギルドの者たちでなければ、推し量ることすらできないだろう。
そして、二人の努力は正当に報われつつあった。
無論、ほとんどの冒険者にとっての「ソードオブムーン」は、依然多くのGvギルドの中の無名の一にすぎない。
だが、Gvギルドに興味を持つ一部の冒険者たちの間では、新興勢力として期待されるまでになっていた。無名に毛が生えた程度の存在であり、並み居る強豪相手にはとても歯が立たなかったが、次第にその差は埋まりつつあった。
そんな頃のある日の午後、プロンテラの南門前でエマは看板を出していた。ギルドメンバーの募集である。
創設当初からクリスとエマ、それに少数の同志は友人や知り合いを「ソードオブムーン」に誘って戦力を整えてきたが、よほど有名な冒険者でもない限り、個人の人間関係はそう広いものではない。無名の冒険者に過ぎなかった彼らでは、個々の人脈だけに頼る形ではそろそろ限界だったのである。だから、クリスとエマはメンバーを交えて話し合った結果、募集を行うことが決定した。エマはそのためにこうしているのである。
しかし、看板を出したからといって人が来るなら、苦労はしない。エマが昼過ぎに看板を出してから、かれこれ二時間が経とうとしていた。声をかけても足を止める者はそう多くないし、誘いに応じる者はさらに 少ない。その上、辺りには別のGvギルドの勧誘もいる。
「今日は無理かなー……」
エマは思わず呟いた。さすがに彼女も疲れてきていたのだろう。
その時、一人の男の冒険者がエマの前で足を止めた。
「こんにちは。募集ですか?」
「……え、あ、はい!そうですよ」
わたわたと挨拶するエマに、男は笑った。眉が心持ち下がった、照れたような笑いだった。
尖った硬い黒い髪をしたその男の着ている服は、午後の日には少し似合わない、闇色の装束。腰には、特殊な形をした刃物を下げていた。アサシンと呼ばれる者たちにしか扱えない、カタールと呼ばれる異形の短剣。
「私は、エマリエル・クリューウェルといいます。あの、お名前は?」
「俺は一陣、っていいます。えーっと、何て呼べばいいですか?」
「……え?」
「いや、姓か名前か……なんですけど」
「あ……呼びにくい名前でごめんなさい。エマでいいですよ」
「ああっ……ごめんなさい。そういうつもりじゃ……」
頭を下げたエマに慌てたのか、おろおろと一陣は謝った。
それを見て、エマは思わず笑ってしまった。
「ぷっ……ふふ。いえ、お気になさらないでください」
「わ、わかりました」
直立不動で男は答えた。
その後、少しの問答をして男――一陣は「ソードオブムーン」の一員となった。
「何ていうかな……色んな意味でアサシンに見えなかったよ。一陣君は」
エマは今でもその場面が目に浮かぶのか、笑っていた。
「そうですね」
アークは同意した。
多くのアサシンは、暗殺者でありながらもその実、暗殺は行っていない。暗殺者の技術をもってモンスターと戦う冒険者といった方が正しいだろう。
しかし、それを差し引いたとしても一陣という男は、暗殺者の装束も、 技術自体もどこか似合わない気がした。
それに……
「でも、そうなると……Gvギルドにもあまり向いていなかったんじゃないですか?」
アークの疑問はもっともだった。今の話から一陣の性格を見ると、とても冒険者同士の戦いを好む男とは考えにくい。
エマは頷いた。
「うん。私もそう思ったよ。だから、正直不安だったんだけどね……でも」
エマの不安は杞憂だった。
だが、同時にそれは一陣の性格を裏切る形でもなかった。
その日、「ソードオブムーン」は、山岳都市フェイヨンの近郊チェンリム湖畔に点在する砦の一つを攻めていた。相手は当時の「ソードオブムーン」と同規模のGvギルド。エマとクリスの立てた作戦が的中し、敵防衛線は崩壊した。
混乱する敵を前に「ソードオブムーン」はクリスを先頭に突破を開始する。エマの率いる後衛部隊は、クリスの部隊に遅れる形で続いて移動していた。
だが、敵の抵抗は依然激しかった。エマの部隊は、敵の騎士たち数人に後方から喰らいつかれてしまったのだ。
前を進むクリスの前衛部隊はすでに突破にかかっており、すぐには引き返せない。引き返せば、敵の防衛線が再構築されてしまうからだ。
「何とかついてきてくれ。何人かそちらに回す!」
クリスから即座に伝令が走ったが、エマは難しいと判断していた。「ソードオブムーン」の戦力にはそこまで余裕はない。だから、エマは敵の騎士たちを牽制しつつ、何とか部隊を少しずつ前進させていたが、敵の猛追はすぐに迫ってきた。
「あの後衛たちを片付けろっ!敵の前衛から切り離せっ!」
先頭に立つ敵の騎士が叫び、敵勢はそれに応えるように殺到した。
「く……!大魔法展開!敵の足を止めなさい!リーナの隊はそのまま、 クリスについていって。ここは私の隊で止めるから」
「無理ですよっ。エマさんの隊だけじゃ……!」
「切り離されたらクリスたちの隊だけじゃもたないわ。任せなさい」
「うー……了解しました!ご武運をっ」
笑っていうエマに、リーナと呼ばれたプリーストの女性は躊躇いを振り切って去った。
リーナの統率する隊が先にいくのを確認するとエマは呟いた。
「……リーナ、ごめんね。」
リーナの分析は正しい。エマの隊だけでは止められない。彼女の隊はおそらく敵の餌食になるだろう。だが、リーナの隊までここで潰されるわけにはいかなかった。
「みんな、ちょっと痛い思いするかもしれないけど……付き合ってくれる?」
「いいっていいって。さ、ここでシャットアウトといきますか!」
「旅は道連れ世は情け、と申しますから。お付き合いさせていただきます」
エマの呼びかけに仲間たちは快く答え、苛烈な攻撃を迫る敵に放つ。
稲妻の柱が爆発を起こし、全てを凍てつかせる吹雪が敵の前を遮る。無数とも思える矢が放たれ、敵の足を穿つ。
しかし、奮戦しようとわずか一隊のものに過ぎない。たちまち、敵は目前に迫り、気がつけば、エマの目の前で騎士が槍を掲げていた。その黒光りする尖端は、彼女の胸を睨んでいた。
「くたばれっ!」
目前で吠える敵の騎士に対し、エマは奇妙に冷静だった。
あれを受ければ瀕死。すでに避けることはできない……仕方ない、か。
槍の穂先が唸りを上げて迫る。
だが、その時黒い疾風が吹きぬけた。
凄まじい速度でエマの横を駆け抜けた影は、そのまま敵の騎士跨るペコペコの足を切断した。ペコペコは地面に崩れ落ち、敵の騎士は地面へと投げ出される。
影はなおも止まることがない。「ソードオブムーン」のハンターに襲いかかっていた騎士の剣を弾き、ウィーザードを打たんとしていたモンクを突き飛ばし、プリーストを狙って矢をつがえていたハンターの胸に刃を突き立てて止まった。
血反吐を吐いて倒れる敵のハンターの前に立っていたのは、「ソードオブムーン」のアサシン。一陣だった。
「先に行ってください。ここは俺で何とかしますから」
一陣は振り返ってエマにそういうと、照れたように笑った。
「……てめえっ!!」
地面に投げ出された敵の騎士が、怒りも露に一陣へと槍を突き出した。
一陣は身をずらしてかわすと、カタールを打ち込みながらエマに叫んだ。
「クリスさんが待ってます!早く行ってください!あんまり持ちませんからっ」
我が身のことは他人事の用にいって、一陣はそのまま敵と戦いはじめる。しかも、敵の騎士だけを相手にするのではなく、その場の敵がエマの隊に向かわぬよう妨げていた。
それは無謀だ。おそらく一陣は間もなく倒されるだろう。
だが、
「……クリスの隊と合流するわ。みんな、行くよ!」
エマは一陣を置いて先に進んだ。仲間の一人が言う。
「エマさん、あれだと一陣は……」
「わかってる……!」
答えるエマの声は、彼女に似合わず荒れたものだった。仲間は思わず息を呑む。
「だけど……一陣君はそのつもりなんだから……」
エマの隊は無事にクリスの隊に合流し、戦いは「ソードオブムーン」の勝利に終わった。
一陣は、戦闘の終了後、砦の一角で重症を負って倒れているところを発見された。彼は意識を取り戻すと、ぼろぼろの姿でエマに訊いてきた。
「エマさんの隊、無事でしたか?」
「……うん。戦いも勝ったけど」
エマが暗い顔で答えると、一陣は頬をかいて笑った。その頬にすら刀傷が刻まれている。
「そうですか……よかった……あいてっ」
傷に触れたのだろう。彼は顔を歪めた。
「……ごめんね。君を囮になんかして……」
エマが小さな声で謝ると、一陣は一瞬ぽかんとした顔をした。それから、慌てて首を振る。
「ああ、いえ……そんな。俺は、みんなが無事ならよかったんで。気にしないでくだ……あぐっ……っつー」
また傷に触れたのか、一陣は悶絶している。
その様を見て、ついエマは笑ってしまった。
「ぷ……あはは。ほら、おとなしくしてなさい。あ、リーナ!こっちこっち」
「一陣君は、いっつもそうだったの」
エマの赤い瞳は宙を見ていた。その先にあるのは酒瓶の並ぶ棚。
無論、彼女が見ているのは「今そこにあるもの」ではなかった。
「戦いのたびに、誰かを庇っては大怪我してたよ。そのたびに止めるんだけど、ぜんっぜん効果ないから、最後の方は当たり前になっちゃってた。クリスも『止めるだけ無駄だな』なんて匙投げちゃったし」
アークにも想像がつく。戦いのたびに重症を負って発見され、助けられた仲間が謝ったり礼をいったりすると慌てて首を振って、恐縮してし まう……そんな一陣という男の姿が。
一陣はきっと何も考えていなかったのだろう。
仲間を守るためなら、自身の身など気にしない。それが一陣にとって当然だったのだから。謝られたりお礼をいわれることなのだという認識もなかったに違いない。
「すごい人ですね……」
アークの言葉は素直な賞賛だったが、エマは少し違ったらしい。
「うーん、すごいのはすごいんだけど……どこか抜けてたよ。彼」
エマはそういって笑った。
でも、その笑顔はすぐにすーっと消えてしまい、
「うん……すごくいい仲間だった。でも、そのせいかな。私もクリスも、 気づけなかったんだ……」
エマの声は暗く沈んだものになった。
「ソードオブムーン」は着々と戦力を伸ばしていった。
すでに無名のギルドではない。Gvギルドに興味のない冒険者たちの間にも一つの勢力として認知されるようになってきていた。
だが実際は、その隆盛は次第に頭打ちになりつつあった。強豪のGvギルドに後少しで手が届くのに、あと一枚の壁が破れない。そんな歯痒い状態がその頃は続いていた。
強豪と称されたGvギルドの地位はそうそう揺らぐことはない。それは名声の力ももちろんあるのだが、戦力や経験や組織としての充実など、Gvギルドの様々な要素において、一つの完成を見ているからであろう。一度強固な形を築けば、それが容易く崩れることはない。だから、強豪の間に割り込むのには、完成された強豪を超える完成度を持つ形を目指さねばならないのである。
ならば、強豪を追うGvギルドが求めるべきは何だろうか。
経験は時がもたらすものですぐに身につけられはしない。組織としての充実も同様である。残るのは一つ、戦力であった。
「ソードオブムーン」はさらなる戦力強化を模索していた。
だが、それは同時に既存の戦力――人員の淘汰でもあった。
「耐久力がないとダメ」
「アサシンはいらない」
そんな声が、「ソードオブムーン」の中で次第に囁かれつつあった。クリスとエマは、その声を聞くたびに注意していた。メンバーの中にはアサシンもいれば、耐久力より速さを長所とした騎士などもいたからだ。「戦力にならない」と追い出すようなことは、二人の本意ではなかった。
しかし、メンバーの中に伸び悩む現状に焦る者たちも出つつある。
だから、クリスやエマがいくら嗜めようとも声は止むことはなく、二人は頭を痛めた。
なぜなら、その声は戦力強化という一点では正しいこと認めざるをえなかったからだ。
戦場において、耐久力は個人の戦闘力を左右する重要な要素となっていた。
大きな要因の一つは、ダンサーと呼ばれる職の特技である「スクリーム」だ。「スクリーム」とは、踊り子であると同時に歌姫でもあるダンサーが自らの強靭な声帯を震わせて放つ、「魔力を宿した叫び」だ。彼女たちの叫びは大気を震わせ、聞いた者を衝撃とともに縛りつける力を持っていた。束縛された者は一時とはいえ、五体の動きを全て奪われる。ゆえに如何に俊敏なる者であろうと、叫びの前には無力な存在とならざるをえない。またその技能ゆえに、ダンサーはギルドの戦いにおける花形となりつつあった。
その上、身体の動きを奪う技能はダンサーのそれだけではなかった。騎士が裂帛の気合を込めて放つ渾身の一刀である「バッシュ」は、その極限の集中を持って命中精度を高め、斬撃の衝撃を持って相手の体を縫いとめる。戦場における狙撃手であるハンターは、役割の通り精密な射撃を可能とするばかりではなく、矢を受けた相手の体を麻痺させる弓――「サベージベベ」というモンスターを封じた護符を貼り付けたものらしい――を操り、常に敵の進軍を妨げるべく矢を浴びせてくるのである。
それら以外にも数多くの「敵を止める」手管があり、全てがギルド同士の戦いにおいて盛んに用いられていた。これは、戦いにおいて敵を文字通り「止める」ことが如何に効果的であり、「止められる」ことが大きな損失であることを物語っているといえよう。
そして、これら「止める手管」に対する対抗手段は、強烈な衝撃・斬撃に耐えうる頑健な身体、麻痺を強引に引き剥がしうる筋力……すなわち、耐久力であった。
しかし、全ての冒険者たちが耐久力を高める体作りをしているかというと、そんなはずもない。素早さを己の長所と定めて体を絞ってきた者もいれば、そもそも体を鍛えること自体を必要としなかった者もいる。現にエマ自身ですら、「スクリーム」に耐えうる体は持っていない。それは全ての冒険者とその職業にいえることであり、Gvギルドでも珍しいことではなかった――が、
そこにGvギルド同士の戦いにおけるアサシンの不幸があった。
そもそもアサシンという職業は、刃に乗せる力よりも「刃を打ち込む速度」と「敵の刃をかわし、生還する」ことを身上とするものである。敵に察知されることなく、風の如く接近し、瞬時に相手の命を奪い、追っ手の刃のことごとくを避けて去る――暗殺とはそういうものだからだ。この観点でいけば、攻撃を受けることがないのだから耐える体は必要ない。むしろ、必要以上に筋肉を固くし、体を重くすることなど論外であるだろう。事実、多くのアサシンたちは筋肉を最小限に絞り、その柔軟性と速さを鍛え上げてきた者ばかりであった。耐久力を持つものなど、極めて希少といってよいだろう。
ところがギルド間での戦がはじまって以来、Gvに参加したアサシンたちはその努力を無残にも打ち砕かれることとなった。理由はいうまでもない。先に挙げた「敵を止める手管」の数々である。つまり、彼らの神技に達した回避能力も、動き自体が止められてしまえば無意味になってしまったのだ。。
加えて、アサシンは暗殺……一対一で人を殺害する技能にこそ長けていたが、他の職――例えば、ウィーザードの大魔法――のような多対一に適した技能を持たなかった。大量の敵を相手にすることの多い戦いにおいて、それも大きな弱点となる。そんなアサシンのギルド同士の戦いにおける役割は、ほぼ二つに限られた。一つは鎧の隙間を通す的確な刃をもって、生き残ったしぶとく強固な敵を倒す。もう一つは、毒を敵軍進路上に散布する。ともにアサシンゆえに可能な役割であったが、それを用いる機会はあくまで「動きを止められぬ」場合、すなわち味方が優勢な状況に限られた。そのような状況はいうまでもなく、常に期待できるものではない。むしろ希少であった。戦いにおけるアサシンの戦力価値は低い――そんな無情な結論が出されたのも無理からぬことといわねばならない。
従って、Gvギルド……特に有力なものたちの間では、アサシンを戦力として求める声はほぼ皆無といってよかった。元からいる者だけで十分だからである。戦力の足りないギルドは「いないよりはマシ」と入れることもあるが、戦いの螺旋を上っていく過程で次第に疎んじられていくことも少なくなかった。
そして、「ソードオブムーン」も今まさに「戦いの螺旋」を上っていく過程にある。しかも、もう少しで頂点に至るところ。目に見える覇者の座、されど開かぬ扉にメンバーが焦るのも仕方がなかった。
だが、それは、
手を取り合ってきた者の心を踏みにじるほどの渇望であったのだろうか?
クリスも、エマも、不安を覚えながら声を必死に封じる。
でも、声はすでに届いてしまっていた。
「……『強さ』って怖いよ……気がつくと何かを忘れてしまう……」
エマがぽつりと零した、わずかなつぶやき。
ただ、それはひどく重い。小さな声に篭められているものは、恐怖、嫌悪、自戒、後悔……とにかく、とても重く暗い何か。
アークは息を飲んでその言葉を受け止めていた。
「彼が……求めてたのは『強さ』じゃなかっただけ……」
エマの声は力なく途中で消える。
「あの、話があります」
一陣がそういって、クリスとエマの前に立った夕方。
二人とも一陣が何をいうか、彼が現れた瞬間にわかってしまった。
一陣の顔も口調もいつもどおり。
一向に暗殺者に見えない柔和な顔立ち。どこか遠慮がちで、それでも明るい声の響き。
でも、目は……そう例えるなら。
大好きだったおもちゃを親に捨てられた子供が幾夜も泣き腫らして、捨てられた事実を受け入れた目。
そんな目だった。
「ごめんなさい。俺はこれ以上、ギルドのお役に立てそうもありません。脱退します」
いつになく、一陣はそう言い切って、あの照れたような笑顔を見せた。
エマは動けなかった。
「一陣、私はお前が無能だなどと思ったことは一度もない。」
代わるようにクリスが断言して、続ける。
「お前には幾度となく助けてもらっている。粉骨砕身の鏡……と思うほどに、な。そのお前を役に立たぬなどという理由で脱退させたとなれば、無能の汚名は私が負うところだろう。思い止まってはもらえないか」
真摯で真っ直ぐな響きを持つ言葉。それはクリスの本心だったのだろう。
「……そうよ」
クリスの言葉に、エマもようやく口を開く。
「私だって一陣君には何度も助けてもらってる。私たち後衛が狙われた時も、私が作戦をミスってピンチになった時も……君はいつだって一番にかけつけてくれたわ」
エマの声は次第に熱を帯びた。
「それなのに……君が役立たずだなんて。君は仲間だし、恩人なのに……そんな、そんなこと……!」
「エマ、落ち着け。一陣が困ってるぞ」
クリスに肩を叩かれて、エマは口をつぐんだ。
クリスは一陣に向き直る。
「そういうことだ。私たち二人は、お前が役立たずだなどと微塵も思っていない。むしろ、その逆だ。厚かましいといえば厚かましいが……ずっと助けてほしいと思っている。だからもう一度言おう、思い止まってくれ」
一陣は、頬をかいて笑っていた。眉を少し下げて。それは困ったような笑い。彼の今までどおりの笑顔。
「ごめんなさい。でも、俺にできることはもうありません。いかせてください」
でも、語られた言葉ははっきりとした拒絶だった。
沈黙が三人を支配した。
しばしの時が流れ、クリスが口を開いた。
「……どうしてもか?何か不満があるなら跪いてでも聞くが」
一陣は首を振って答えた。
「いいえ。不満はありません。ただ、決めたんです」
照れた笑顔は消える。一陣の唇は真一文字に結ばれ、目は真っ直ぐと二人を見ていた。
そこには決意だけがあった。
「そうか……意志は固いのだな。わかった」
クリスは目を閉じ、頷いた。平静のままに。
彼女が相手の前でじっと目を閉じるのは激しい怒りを覚えた時か、心底落胆した時だけだ。暴れる感情を制御する、彼女なりの儀式。
「すみません」
「何、謝ることはない。お前の決意を曲げるわけにもいかん。今までご苦……」
頭を下げる一陣に、クリスが苦笑して答えようとした時、
「……どうしてよ」
静かな湖面を乱す小波のような、エマの震える声が響いた。
「……エマ?」
戸惑ったクリスの声。非常に珍しいはずのそれは、エマの耳には入らない。
小波はそのまま波となって迸った。
「どうしてよ!何で?一陣君……!何で出て行っちゃうの!?」
止まらない。
「今まで一緒に戦ってきたのに!大切な仲間なのに!どうして……っ!」
止まらない。
エマとて、一陣が止められぬことはもうわかっている。
話を聞く前から、一陣の目を見た時から、わかっている。
だけど、止まらなかった。
「あの日、募集で来てくれた時、本当に嬉しかったのに……!それなのに……」
「エマ!!」
クリスが声を上げて叱りつけた。
エマは肩をびくりと震わせて止まる。
痛みを覚える静寂。差し込む夕日が三人をただ赤く照らしていた。
「……一陣に謝るがいい。一陣は決意は固い。ならば、私たちがすべきことは、彼の意を捻じ曲げることではない。快く送り出すのが唯一できる、せめてもの礼儀だろう……」
やがて、クリスはそういってエマの肩を叩いた。
叩くというよりも撫でるようなそれは、慰めているようにエマには感じられた。
クリスとて無念の思いでこうしているのも、エマはわかっている。それでも。
「ごめ…ん……なさい」
納得できなかった。
エマは俯いて、一陣に謝る。
途切れ途切れの言葉は、溢れ出る波をねじ伏せる蓋に過ぎない、不出来な謝罪。
だが、
「ありがとう」
「……え?」
意外な言葉に顔の上げたエマの瞳に、涙に濡れて滲んだ視界に映ったものは、歪んでいてもわかる一陣の笑顔だった。困ったような照れたようなあの笑顔。
見慣れていたはずのもの。赤い光に照らされたもの。
影一つない、春の青空の冷たさと暖かさを感じさせるそれは、
なぜかはじめて見る顔のようで。
エマは、自分の心が静かになっていくのを感じた。
まるでその笑顔に何もかも、全てが吸い込まれてしまったように。
「……エマさん、クリスさん、お世話になりました。俺もこのギルドに入れてもらえて、本当に嬉しかったです」
一陣は頭を下げる。
「こちらこそ、感謝している。気が向いたらでかまわない。たまには顔を出してくれ」
「うん……今までありがとう。また来てね」
同じく頭を下げる二人に一陣は笑って、
「はい。また……さようなら」
ただ、手を振って二人に「ソードオブムーン」に別れを告げた。
「……それ以来、一陣君には会ってないわ」
エマはいって寂しそうに笑った。
アークは黙っていた。口を挟むことが躊躇れたからだ。
「一陣君は彼自身の言うとおり『ソードオブムーン』に不満なんかなかったんだと思う。そして、彼の言うとおり『彼のできること』はなくなっていたんだろうね」
一陣にできたこと、彼が心から望んでいたことは、はっきりとはわからない。
でも、それはおそらく……「誰かを守ること」ではなかったのか。
「ソードオブムーン」を、そしてエマとクリスを守ることを望んでいた一陣。
だが、一陣の存在自体がエマとクリスにとって負担となりつつあることを悟り、また「ソードオブムーン」が彼の守りを必要としなくなりつつあることを感じて。
一陣は身を引くことを決断したのだろう。
アークにはわかる気がした。
一陣のそれは……とてもよく似ていたから。
「ふふ。一陣君もアーク君も冷たいよねー……それに自分勝手」
エマは膨れる。
「強いからって、置いてかれる側はたまらないっての!」
拗ねた口調だが、赤い瞳は笑っていた。
そこにあるのは寂しさと、寂しさを乗り越えてきた強さ。
彼女は受け入れている。
いわなくてもよかったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
それでも、アークはせめて謝らずにはいられなかった。
「こら、謝るんじゃないの」
エマは苦笑いすると、
「一陣君もそうだったけど、アーク君もそうなのね……ほら」
そういってアークに向けて、右手を差し出した。
「え……?」
「握手よ握手」
エマの意図は判然としなかったが、アークは恐る恐るその手を握り返した。
細く白い華奢なエマの手が、アークの手に収まる。
それは暖かかかった。
「少し早いけど……アーク君、今までありがとう。元のギルドに戻ってもがんばってね。それで……たまには顔を見せてくれると嬉しいな」
紋切り型のありふれた別れの言葉とともに手は離れ、エマは笑った。
その笑顔はどこか、かつて彼女と共にいた男のそれと同じ、
――春の青空を感じさせた。
アークは目頭に熱を感じながら、気づいた。
彼は「ソードオブムーン」を発つ。
とっくに心に決めていたはずの別れを、ようやく受け入れることができた自分に。
エマは別れの辛さを耐えて、アークの背中を優しく押してくれていた。
本当に……かなわなかった。
「マスター、カクテルを二つお願い。飲みなおしよ」
「畏まりました」
エマの明るい声と老人の重厚な声が聞こえる。
アークはしばらくの間、顔を上げることができなかった。
P002 月凍える夜に / 2005-04-18 (月)
夜の帳の中、一人の青年が篝火の側を立った。
「ちょっと涼んでくるよ。」
彼が軽く手を挙げてそういうと、篝火の周りや近くのベンチから声が飛ぶ。
「おう。」
「何だ?飲みすぎたのか?」
「いや、あいつそんな飲んでねーぞ」
「おいおい。我らが宿敵黒騎士団の砦を奪った記念すべき日だぞ、もっといっとけ~!」
「そういう君は飲みすぎよ……からむのはよくないわ」
「無理に飲ませるのもいけませんよ。気にせず、いってらっしゃいな」
騒がしい仲間たちに、青年は苦笑いする。
彼らはルーンミッドガッツでは、名の知れたギルドのメンバーだった。
一般の「ギルド」とは平たくいえば、気の合う冒険者たちが集まって作る共同体のようなものだ。
だが、彼らのギルドは「Gvギルド」と呼ばれる「ギルド」とは似た性格を持ちつつも若干異なるものであった。
一年前。
ルーンミッドガッツ王国国王トリスタン三世は、モンスター駆逐に功ある冒険者たちに対する褒美として、首都プロンテラ、魔法都市ゲフェン、山岳都市フェイヨン、国境都市アルデバラン、これら四都市近郊に点在する砦を下賜する触れを出した。
しかし、全ての冒険者たちにくまなくというわけでは無論ありえない。
冒険者たちをさらに切磋琢磨させるべく、砦を巡るギルド同士の争奪を許可したのである。
すなわち、真に強き冒険者が砦を手にせよ!というわけだ。
以来、「砦の獲得」を目指す冒険者たちが続々と現れ集い、「砦を手にできる強き者たち」を目標とするギルドが各地で形成された。
そうして誕生したギルドを冒険者たちは「対ギルドのためのギルド」すなわち「Gvギルド」と呼んでいるのである。この呼称には、その強さへの畏敬ともに若干の侮蔑もこめられていた。冒険者たちの中には冒険者同士の争いを嫌悪する者たちもおり、強さの驕りの体現だ、強欲な者たちの醜い争いだ、と見て忌避する者もいたからである。
とにもかくにも、彼らのギルドは「Gvギルド」であった。
ギルドの名は「ソードオブムーン」。「月の剣」或いは「月」「SOM」などと呼称されることが多い。ゲフェンを本拠とする彼らは今まで数多くの激戦において勝利してきた強者たちであり、名はルーンミッドガッツ全土に知れ渡っていた。
今日も戦いがあり、「ソードオブムーン」は激戦を制して勝利を収めたのである。相手の「黒騎士団」も強豪として知られるGvギルドであり、過去幾度も戦火を交えた宿敵であった。珍しくもない勝利とはいえ、興奮冷めやらぬのも無理からぬところといえよう。
「ごめんなさい。俺あんまり飲めなくて……ちょっといってきますね。」
青年は軽く頭を下げると、仲間たちに背を向けて歩き出す。
背後に消えていく篝火と喧騒を脳裏において、青年は目線を上げた。
眩くも小さい街頭の光の向こうに、闇に沈む家々の尖った屋根が見えた。その背後にはゲフェンの街の象徴ともいえる塔が、黒々と重く天を貫いている。さらに遠くに見える夜空は、一遍の曇りもなく、冷たく透き通った暗い青。
星の瞬きに遠慮するように塔の影からそっと白い月が覗いていた。
カツン、カツン、と靴が石畳を叩いていく。
光と喧騒が遠く消えて靴音しか聞こえなくなった時、靴音も止まった。
少年はそっと、確かにわずかに肩を落として、かすかにため息をついた。
カツン、カツン――
冷えた石畳に靴音だけがまた響いていく。
青年はベンチに腰を下ろした。
背後には街路樹と植え込み。木々の葉は枯れ、ほとんどが落ちている。四方に置かれたベンチは木に残った葉を守ろうとしているようにも見えた。
青年はマントの前を軽く狭める。
高い襟を持つ肩掛けとの二段構造になっているマントとその下にある法衣は、ゲフェンの魔術師協会が支給しているもので、ウィーザードと呼ばれる高位の魔術師に与えられるものだ。
栗色の柔らかそうな髪の下の白い顔はまだ少年といってもよい幼さを残しており、到底熟練者には見えないものであった。それでも、青年はヴィーザードなのだろう。
彼はぼんやりと、右手に握られた杖を弄んでいた。
特に意識している風でもなく、それは癖なのかもしれない。
杖は人間の髑髏を模したものでその実人間の骨でできており、「骸骨の杖」と称される。
「骸骨の杖」は、死んだ高位魔術師の頭蓋骨と脊椎から彫りだされた魔杖である。
本来は許されぬ外法の産物だ。
しかし、外道に堕ちる魔術師たちは決して少なくない。「イービルドルイド」などと呼ばれるモンスターたちはその成れの果てとされ、この杖はそうした道を外れた者たちが好んで使うものであった。
だが、その外道が魔術師協会や冒険者に滅ぼされると、この杖を残していくことがある。
本来なら外法によって作られたものは速やかに破壊すべきであるはずなのだが、ここに魔術師の合理主義の不思議さ、おかしさとでもいうべきものがあった。
外法によって作られたとはいえ生前の魔力が宿る魔術師の骨を用いたこの杖は、魔術の発動体としては得難い至上のものであり、有用性は文句のつけようがない。むざむざ破壊してしまうにはあまりに惜しいものであった。
「魔術師の尊い犠牲を無駄にするな」とおかしな声も上がり、魔術師協会は一つの結論を出してこの杖の使用を認めたのである。
曰く「作るのは許さぬ。が、作られてしまったものはしょうがない」。
教義を重んじる教会側は無論「死者への冒涜である!」と猛反発し、今も双方の間で争論が続いている。
ところが、教会のプリーストの起こす奇跡の発動体としてもこの杖は優秀であったため、冒険者上がりのプリーストたちの中にもこの杖を用いるものは多かった。
事実上黙認され、元より仲の悪い両組織が形ばかり争っているだけといえよう。
またこの杖は一方で「実力を持つ魔術師」のステータスシンボルの一つでもある。
青年がこの杖を持っているということは、実力は確かだということ。
だが、幼さの残る顔にグロテスクな杖。法衣以上にこれは似合っていなかった。
「人は外見によらない」の生きた見本のようなウィーザードの青年は、見目に合わぬ杖を弄びながら夜の街を眺めている。
青い瞳の先には、ゲフェンの東門がある。夜が深まってなお、活動心旺盛な冒険者たちが門出入りしていく。日中に比べれば疎らとはいえ、その流れが絶えることはない。
青年はただじっとそれを瞳に映していた。
「よっ。何黄昏てるのー?」
青年の肩ががたっと動く。杖は手を離れ、カラカラと軽い音を立てて転がった。彼の周りだけにあった静寂は唐突に破られた。
明るい、鈴が鳴るような女の声。
青年の前にはいつの間にか、女が出現していた。
「あ……クリューウェルさん」
彼の前に立つ女は途端に「むっ」と形のよい眉を寄せた。長く雪のような銀髪が跳ねる。その様は怖いというには迫力が欠けていたが、
「姓で呼ばなくてよろしい!何度言ったかな?」
「う。す、すみません。エマリエルさん」
なぜか肩をすくませ、頭を下げる青年。
彼の前で女はさらに眉を狭めていたが、「ふー」とため息とともに眉根を下げると、白く細い手を口に当てて目を細め、赤い瞳で青年を流し見る。
「エマ……でいいといったわよね?」
囁くようなかすかな声が青年の耳を擽った。
彼は幼さの残る引きつらせ、俯いてたどたどしく答える。
「あ、は、はい……エマさん」
言い切って青年の耳は、夜闇を通してもわかるくらい真っ赤になった。
顔も同様で、彼はそのまま俯いてしまう。
その様をじーっと眺めていた女は「む」とまた眉根を寄せた。
青年は俯いたままで固まり、女も固まっている。
数秒の沈黙。
先に音をあげたのは女――エマの方だった。
「ごめん。からかう気はなかったんだけど、つい……本当にごめん。」
そういって彼女は頭を下げた。
「あ、いえ、頭を上げてください。俺こそ、毎回で……ごめんなさい」
青年は顔を上げて、今度は青くなり慌てた。
女の名は、エマリエル・クリューウェル。彼女は「ソードオブムーン」の最古参の一人だ。
青年からしてみれば、先輩どころではない相手。彼が萎縮するのも無理はない。
「ううん。私も拘って嫌われるのは嫌だから。アーク君の呼びやすい方でいいよ。」
でも、たじろぐヴィーザードの青年――アークにそういって、エマは笑った。
「……!」
アークは途端、目を逸らしていた。
エマの衣装は、大胆と上品を際どいラインでミックスしたものである。
襟の高いマントは肩掛けと二段階になっていた。これとその下の法衣も魔術師協会がウィーザードに支給しているものだが、女性用のそれはアークの着ている男性用とはかなりデザインが異なる。
まずはマントだが、肩掛けの部分もマントにも白い毛皮で縁取りされている。生地も男性用に比べて分厚い豪華なものだ。
それはよいとして問題なのはマントの下の法衣だった。
太股をむき出しにしたローレッグ。その上に纏う法衣は大きく胸元が開いている。
加えて前で合わせる形で、下に至っては生地は長めに取っているものの閉じて合わせるようにはできていない。
つまり露出が多い。いや、過多といってよい衣装なのだ。羞恥心の強い女性にとっては着て歩くだけでも苦痛であろう。魔術を志す女性からは非難の的であったが、魔術師協会は「女性は生命を形作るがゆえに精霊との反発が起きやすい。この魔術服はその緩和と融和のためである」として着用を強制していた。男尊女卑との謗りは当然であろうが協会は絶対である。従わねばならない。
ゆえに多くの女性魔術師は、涙ぐましい工夫をしている。マントの前を常に閉じるといった工夫や、衣服を自前で裁縫して露出を少なくする魔術服の独自改造などだ。
しかし、一方には「これもお洒落の一種」として楽しむ者や、より過激にして色香を振りまく者たちもいる。
女性魔術師の間では3:7くらいで賛否両論といったところだろう。
女性が困るのは当然として、男にとっても「個人の中で」賛否は半々だった。並みの性欲をもつ男性であれば「目のやり場に困る」。女ウィーザードが目の前に立てば、その開いた胸元へはもちろん、水着のようなローレッグだけの下腹部、そこから伸びる太股へはついつい目がいってしまう。見るなといわれても辛いものであろう。
色々な意味で問題のある衣装だった。
ちなみにエマはどちらかといえば賛成側のウィーザードだ。いくらか手直しをしてはいるものの、彼女はこの衣装を楽しんでいる。
だが、季節は冬である。エマは馬鹿では無論ないし、寒さを感じないこともない。
従って唯一の防寒具たるマントは前で閉じられており、目のやり場に困るはずはない。
だから、そう結局は――
アークという青年にとって、エマという女性そのものを直視するのが難しかった。
それだけなのだろう。
エマはそれに気づいているのかいないのか、彼の所作には構わずに口を開いた。
「で……アーク君?こんなところで何してるの?」
首を傾げて、エマは尋ねる。銀の髪がさらりと揺れた。柔らかそうな銀髪の上には「ティアラ」と呼ばれる金の宝冠が映えている。
「いえ、ちょっと涼みに来たんですが。」
少し落ち着いたのか、アークは淀みなく答えたが、
「んー涼むって……この時期だと涼しいを通り越して寒いよ。君は冬は強いの?」
身震いする仕草をしてエマは、当然といえば当然の疑問を返す。
繰り返すが季節は冬だ。
酒で体が火照ったとしても、飲むのを止めて篝火から少し離れれば十分すぎる。
アークは苦笑した。
つまりエマは「それは嘘でしょ?」と訊いている。
「いいえ。ごめんなさい。嘘つきました。ちょっと一人になりたくて。」
「ふむ。正直でよろしい!」
エマはくすくすと笑って、それから少し眉根を寄せた。
「あや……なら、邪魔しちゃった?」
「あ、いえ。そういうつもりはありませんよ。気にしないでください」
アークの言葉は、反射的な社交辞令に近いものだった。
でも、エマは笑みを零して嬉しそうに訊いた。
「んー……なら、邪魔したついでにちょっと付き合ってくれない?」
「え?」
「これから飲みに行くの。でも、一人じゃ寂しいし。君はお酒ダメ?」
「いいえ……少しは飲めますけど」
「じゃ、決まり!」
弾ける笑顔でそういうとエマは銀の髪をふわりと翻して、アークに背を向ける。
彼女は少しそのまま歩いて、振り返って彼を見た。
「ほら。いくよ~」
そして、また背を向けて歩いていってしまう。アークは口を「ど」の形で開いたまま、ただそれを見送っていた。
だが、エマの銀髪を見失う前には彼は何とか気がついた。
ついていくしかない。
選択肢はすでに彼の上を通り過ぎていた。彼は慌てて立ち上がり、今更に足元に転がる杖を拾った。
P003 月凍える夜に / 2005-04-18 (月)
「お金は私が出すから、気にしなくていいよ」
エマはそういって軽やかな足取りでバーへ入っていった。
「いえ。気にするなっていわれても……」
出た言葉はすでに時間切れで、先に行ったエマには届かない。もっとも、届いても返品されただろうことは彼にも察しはついていたが。
狐に摘まれたような顔でアークは扉に手をかける。少し重い扉はギッと音を立てて彼を迎え入れた。
「こっちこっちー」
という声が聞こえた気がした。カウンター席でエマが手を振っている。
店内はこの時間にも関わらず空いていた。それというのもいくつか理由がある。
一つは、冒険者たちの多くは堅苦しいよりも賑やかな酒を好む上、自前で調達ができる。だから、店で金を払って飲むよりも、溜まり場に持ち込んで飲むのが彼らの基本だった。
もう一つは、この店にまつわる有名な噂の存在である。それは次のようなものだ。
ここの店主はかつて豪勇で鳴らした冒険者であり、格闘術を極めたモンクだった。
ある時、愚かにもこの店で酔って暴れた騎士の男が店主に殴り飛ばされた。
その拳の威力たるや凄まじく、男の体はカウンター席からドアを突き破り、表まで飛んだ。
鼻は潰され、顎は外れ、前歯は折れて、石畳に叩きつけられた体は痣だらけ……
要するに「ズタボロ」の男は酔いも消し飛び、歩み寄ってくる店主に怯えた。
「た、助けて……いや、助けてください。殺さないでくださいっ」
失禁し、跪いて哀願する男を見て、店主は無表情でこう言った。
「お客様、お帰りですか。ドア代とお酒代、しめて五万ゼニーになります」
これを事実と信じる者はいないだろう。所詮は噂だが、若干の真実も含んでいる。
まず、ここの店主は白髪で見るからに厳しい顔つきのの老人であり、年を感じさせぬ屈強な体躯を持っていた。
次に、店主は静寂を好み、冒険者であるなしを問わず騒がしい客を嫌っていた。
だから、噂の真偽はともかく、客入りが少ないのは「店主と客の双方の合意の上」といってよいのだろう。
しかし、アークはそのようなことは知らないし、噂も知らない。
静かな店内の様子にも緊張したが、カウンターに座った時の比ではなかった。
びしっと音がするくらい、きっちりと着こなした白いYシャツに黒いスラックス。
折り目をきちんとしたベストに蝶ネクタイ。非の打ち所のない着こなしはしかし、その大きな体躯には少し窮屈そうにも見えた。
だが、そんなことは微塵も感じさせず、店主の老人は重々しく訊いてくる。
「いらっしゃいませ、お客様。オーダーをどうぞ」
尖った鼻に白い髭、鋭く険しい眼光。声は威厳を通り越す重みを持ったバスだった。
「私はいつもの……あ、そうだ。ブリトニア産の赤で二十年ものはあるかしら?」
「申し訳ありません。二十年ものは切らしております。十八年でしたらございますが」
「あ、それでいいわ。辛いのが好みなんだけど……」
「ございます」
「じゃ、それをボトルで。銘柄はマスターに任せるわ。美味しいのをお願い。」
「畏まりました」
固まるアークの横で、エマは特に変わらない様子でオーダーをする。
「こちらのお客様はいかがいたしますか?」
鋭い眼光がアークに向く。それだけで彼の背中を冷たい汗が走った。口が動かないどころではない。酒の名前すら浮かばない。老人の眼光も表情も一ミリたりとも動かなかったが、アークの目にはそれが段々と険しくなっているように映った。
席を立って後ろも見ずに逃げだしたい!
アークの中でその衝動が次第に強くなっていったが、彼が逃げ出す前に助け舟が来た。
「マスター。彼はお酒はあまり飲まない方なの。軽めのを見繕ってあげて」
「承りました。では、カクテルを。ジントニックなど如何でしょうか」
「そうね……アーク君、ソーダは大丈夫?」
「……は、はい」
引きつった顔でかろうじてアークは答えた。
「うん。じゃ、それでお願いね」
「畏まりました。では、しばしお待ちください」
老人は慇懃に一礼し、カウンターの奥へと下がっていった。
大きな体躯が二人の視界から消える。
「……はぁぁぁぁぁ」
途端、アークの口から情けない音を立ててため息が漏れた。カウンターの高い椅子の上で、彼はそのままずり落ちるのではないかというほどに脱力していた。
否、ほとんどずり落ちかけている。
「ぷ……あはは。やっぱり怖かった?」
アークの脱力ぶりに、エマは口元押さえつつ訊いてくる。赤い瞳は悪戯っぽく光っていた。
「……エマさん、ひどいですよ。先に教えてほしかったです……」
カウンターに突っ伏し、恨めしげにいってくるアークにエマは目を細めた。
「ふふ……ごめんごめん。でも、教えてたらアーク君、逃げちゃいそうだったし」
「……うう」
ごもっともです、とはアークは言わなかったが呻き声がエマの正当性を物語っている。
ただでさえ、彼はこういう場所の経験がなかった。妙齢の女性と来たこともなかった。
その上、店主が強面と聞いて来る気になれただろうか?
……答えは否だ。
女性の手前であるという面子を気にしてしまうだろうし、慣れない場所慣れない相手の緊張を恐れただろう。それらを押して、無難に振舞う 自信もない。
それならば、醜態を見せまいと断ったに違いなかった。
エマは全てをお見通しでアークを半ば強引にこの席へと座らせ、同時に彼の退路を絶っていたのである。絶妙なリードだった。
「……かなわないなぁ」
「ん、何かいった?」
「いえ、何も……」
かなわないのはエマの計算高さだけではない。
本来ならアークの男の面子――彼にも少しはある――は丸潰れにされたわけで、見せるのは器が小さいとはわかっていても、少しは怒気が沸いてもいいはずだ。
でも、アークの中に怒気はかけらもない。
憎めないというよりも、男のつまらない面子とかが馬鹿馬鹿しくなってしまうような、そういう雰囲気をエマは自然に作ってしまう。
これが緻密な計算の元にあるのか、天性のものなのか、それとも両方によるものなのか、はたまたそれをわからせないのもエマの掌の内なのか。
アークにわかることは唯一つ、「自分はエマにはかなわない」という事実だけである。
かなわない、と諦めてしまうと少しだけ腹が座った。
アークは曲がっていた背筋を伸ばして、顔を上げる。
目の前には、老人の厳しい顔があった。
いつの間に戻ってきたのか。
「……!」
アークの座ったはずの腹は早くも椅子から転げ落ちそうになったが、これも二度目である。
何とか彼は動揺を表すことなく姿勢を正した。
老人は彼に何ら構うことなく手に持っていたワインボトルの栓を抜いた。
それから、エマの前にワイングラスを置いた。
そしてゆっくりとワインを少量、その中に注いだ。
「どうぞ、お試しください」
アークの横で、エマは頷いてグラスを持ち少し揺らしてから口をつけた。
薄い桃色の唇がそっとグラスから赤い液体を飲み込んでいく。
白く細い喉がこくこくと動き、マントの隙間から覗く胸がかすかに上下している。
アークは目を逸らした。このまま見ているのは、何か「危険」だったからだ。
「うん、美味しい。さすがマスター……目は衰えてないようね」
「ありがとうございます」
グラスを置いて頬を緩ませるエマに、老人は礼をする。
そして、アークの前に瀟洒なカクテルグラスを置いた。
カウンターの下から銀のシェイカーを出し、棚にあるジンとソーダーなどカクテルの材料を出していく。それらを――もはや体が覚えているのだろうか――目分量でシェイカーに次々と入れ、蓋をした。
「では、失礼を」
そういうと老人はシェイカーを左右の手で捧げもつようにして振る。その動きは工程を積み重ねた年数を感じさせるもので、客である二人はしばし見入っていた。
やがて、老人はシェイカーを止め、ゆっくりと中身をグラスに注いでいく。
「どうぞ、ご賞味ください」
老人の声に、アークの緊張は高まった。
彼はかすかに震える手でそっとグラスを持ち、口をつけて一口飲んだ。
「……美味しい、です」
アークの意識とは別に、思わず口が開いた。
このカクテル……ジントニック自体は彼も飲んだことがあるありふれたものだ。
しかし、酒の経験があまりない彼にもはっきりとわかるほどに格別だった。
「ありがとうございます」
老人は、わずかに口の端を上げてニッと笑った。
巌のような顔に合った太い笑みは、何か会心の悪戯を成功させた子供のようだった。奇妙な愛嬌を持つそれは一瞬で消えてしまったが。
「それでは、ごゆっくりとお楽しみください。御用の際はベルを」
一礼して下がっていく老人を見送るアークに、すでに緊張はなくなっていた。
「ねえ……どう?いい店でしょ?」
「はい。」
肘でつついて訊いてきたエマに、アークは素直に賛同した。
P001 月凍える夜に / 2005-04-18 (月)
篝火が燃えている。
周りに集う影が見える。
手には杯。
発せられる声は歓喜に満ちる。
杯の中には勝利の美酒か。
響く勝鬨の傍らに剣は鞘と共に眠る。
身を作る鋼は、火の恩恵を受けることなく冷たく、光の恩恵を受けて鈍く輝く。
ただ、静かに栄光を帯びていた。
そして、主人たちの歓喜に恐縮するようにそっと影を落としていた。
心に光と影を抱きつつも鉄の沈黙を守って控える忠臣たち。
彼らはひどく美しく、強く、同時に――
寒そうに、寂しそうに、怯えるように、怒りを堪えるように、想いを抑えるように。
何かを耐え忍ぶ……どこか切なく、儚いものに見えた。
剣たちが見上げる夜空は深く澄んで星々をたたえる。
地に吹く風は冷たく、身を切るが如く。
ルーンミッドガッツ王国魔法都市ゲフェンは、十二月を迎えようとしていた。