「お金は私が出すから、気にしなくていいよ」
エマはそういって軽やかな足取りでバーへ入っていった。
「いえ。気にするなっていわれても……」
出た言葉はすでに時間切れで、先に行ったエマには届かない。もっとも、届いても返品されただろうことは彼にも察しはついていたが。
狐に摘まれたような顔でアークは扉に手をかける。少し重い扉はギッと音を立てて彼を迎え入れた。
「こっちこっちー」
という声が聞こえた気がした。カウンター席でエマが手を振っている。
店内はこの時間にも関わらず空いていた。それというのもいくつか理由がある。
一つは、冒険者たちの多くは堅苦しいよりも賑やかな酒を好む上、自前で調達ができる。だから、店で金を払って飲むよりも、溜まり場に持ち込んで飲むのが彼らの基本だった。
もう一つは、この店にまつわる有名な噂の存在である。それは次のようなものだ。
ここの店主はかつて豪勇で鳴らした冒険者であり、格闘術を極めたモンクだった。
ある時、愚かにもこの店で酔って暴れた騎士の男が店主に殴り飛ばされた。
その拳の威力たるや凄まじく、男の体はカウンター席からドアを突き破り、表まで飛んだ。
鼻は潰され、顎は外れ、前歯は折れて、石畳に叩きつけられた体は痣だらけ……
要するに「ズタボロ」の男は酔いも消し飛び、歩み寄ってくる店主に怯えた。
「た、助けて……いや、助けてください。殺さないでくださいっ」
失禁し、跪いて哀願する男を見て、店主は無表情でこう言った。
「お客様、お帰りですか。ドア代とお酒代、しめて五万ゼニーになります」
これを事実と信じる者はいないだろう。所詮は噂だが、若干の真実も含んでいる。
まず、ここの店主は白髪で見るからに厳しい顔つきのの老人であり、年を感じさせぬ屈強な体躯を持っていた。
次に、店主は静寂を好み、冒険者であるなしを問わず騒がしい客を嫌っていた。
だから、噂の真偽はともかく、客入りが少ないのは「店主と客の双方の合意の上」といってよいのだろう。
しかし、アークはそのようなことは知らないし、噂も知らない。
静かな店内の様子にも緊張したが、カウンターに座った時の比ではなかった。
びしっと音がするくらい、きっちりと着こなした白いYシャツに黒いスラックス。
折り目をきちんとしたベストに蝶ネクタイ。非の打ち所のない着こなしはしかし、その大きな体躯には少し窮屈そうにも見えた。
だが、そんなことは微塵も感じさせず、店主の老人は重々しく訊いてくる。
「いらっしゃいませ、お客様。オーダーをどうぞ」
尖った鼻に白い髭、鋭く険しい眼光。声は威厳を通り越す重みを持ったバスだった。
「私はいつもの……あ、そうだ。ブリトニア産の赤で二十年ものはあるかしら?」
「申し訳ありません。二十年ものは切らしております。十八年でしたらございますが」
「あ、それでいいわ。辛いのが好みなんだけど……」
「ございます」
「じゃ、それをボトルで。銘柄はマスターに任せるわ。美味しいのをお願い。」
「畏まりました」
固まるアークの横で、エマは特に変わらない様子でオーダーをする。
「こちらのお客様はいかがいたしますか?」
鋭い眼光がアークに向く。それだけで彼の背中を冷たい汗が走った。口が動かないどころではない。酒の名前すら浮かばない。老人の眼光も表情も一ミリたりとも動かなかったが、アークの目にはそれが段々と険しくなっているように映った。
席を立って後ろも見ずに逃げだしたい!
アークの中でその衝動が次第に強くなっていったが、彼が逃げ出す前に助け舟が来た。
「マスター。彼はお酒はあまり飲まない方なの。軽めのを見繕ってあげて」
「承りました。では、カクテルを。ジントニックなど如何でしょうか」
「そうね……アーク君、ソーダは大丈夫?」
「……は、はい」
引きつった顔でかろうじてアークは答えた。
「うん。じゃ、それでお願いね」
「畏まりました。では、しばしお待ちください」
老人は慇懃に一礼し、カウンターの奥へと下がっていった。
大きな体躯が二人の視界から消える。
「……はぁぁぁぁぁ」
途端、アークの口から情けない音を立ててため息が漏れた。カウンターの高い椅子の上で、彼はそのままずり落ちるのではないかというほどに脱力していた。
否、ほとんどずり落ちかけている。
「ぷ……あはは。やっぱり怖かった?」
アークの脱力ぶりに、エマは口元押さえつつ訊いてくる。赤い瞳は悪戯っぽく光っていた。
「……エマさん、ひどいですよ。先に教えてほしかったです……」
カウンターに突っ伏し、恨めしげにいってくるアークにエマは目を細めた。
「ふふ……ごめんごめん。でも、教えてたらアーク君、逃げちゃいそうだったし」
「……うう」
ごもっともです、とはアークは言わなかったが呻き声がエマの正当性を物語っている。
ただでさえ、彼はこういう場所の経験がなかった。妙齢の女性と来たこともなかった。
その上、店主が強面と聞いて来る気になれただろうか?
……答えは否だ。
女性の手前であるという面子を気にしてしまうだろうし、慣れない場所慣れない相手の緊張を恐れただろう。それらを押して、無難に振舞う 自信もない。
それならば、醜態を見せまいと断ったに違いなかった。
エマは全てをお見通しでアークを半ば強引にこの席へと座らせ、同時に彼の退路を絶っていたのである。絶妙なリードだった。
「……かなわないなぁ」
「ん、何かいった?」
「いえ、何も……」
かなわないのはエマの計算高さだけではない。
本来ならアークの男の面子――彼にも少しはある――は丸潰れにされたわけで、見せるのは器が小さいとはわかっていても、少しは怒気が沸いてもいいはずだ。
でも、アークの中に怒気はかけらもない。
憎めないというよりも、男のつまらない面子とかが馬鹿馬鹿しくなってしまうような、そういう雰囲気をエマは自然に作ってしまう。
これが緻密な計算の元にあるのか、天性のものなのか、それとも両方によるものなのか、はたまたそれをわからせないのもエマの掌の内なのか。
アークにわかることは唯一つ、「自分はエマにはかなわない」という事実だけである。
かなわない、と諦めてしまうと少しだけ腹が座った。
アークは曲がっていた背筋を伸ばして、顔を上げる。
目の前には、老人の厳しい顔があった。
いつの間に戻ってきたのか。
「……!」
アークの座ったはずの腹は早くも椅子から転げ落ちそうになったが、これも二度目である。
何とか彼は動揺を表すことなく姿勢を正した。
老人は彼に何ら構うことなく手に持っていたワインボトルの栓を抜いた。
それから、エマの前にワイングラスを置いた。
そしてゆっくりとワインを少量、その中に注いだ。
「どうぞ、お試しください」
アークの横で、エマは頷いてグラスを持ち少し揺らしてから口をつけた。
薄い桃色の唇がそっとグラスから赤い液体を飲み込んでいく。
白く細い喉がこくこくと動き、マントの隙間から覗く胸がかすかに上下している。
アークは目を逸らした。このまま見ているのは、何か「危険」だったからだ。
「うん、美味しい。さすがマスター……目は衰えてないようね」
「ありがとうございます」
グラスを置いて頬を緩ませるエマに、老人は礼をする。
そして、アークの前に瀟洒なカクテルグラスを置いた。
カウンターの下から銀のシェイカーを出し、棚にあるジンとソーダーなどカクテルの材料を出していく。それらを――もはや体が覚えているのだろうか――目分量でシェイカーに次々と入れ、蓋をした。
「では、失礼を」
そういうと老人はシェイカーを左右の手で捧げもつようにして振る。その動きは工程を積み重ねた年数を感じさせるもので、客である二人はしばし見入っていた。
やがて、老人はシェイカーを止め、ゆっくりと中身をグラスに注いでいく。
「どうぞ、ご賞味ください」
老人の声に、アークの緊張は高まった。
彼はかすかに震える手でそっとグラスを持ち、口をつけて一口飲んだ。
「……美味しい、です」
アークの意識とは別に、思わず口が開いた。
このカクテル……ジントニック自体は彼も飲んだことがあるありふれたものだ。
しかし、酒の経験があまりない彼にもはっきりとわかるほどに格別だった。
「ありがとうございます」
老人は、わずかに口の端を上げてニッと笑った。
巌のような顔に合った太い笑みは、何か会心の悪戯を成功させた子供のようだった。奇妙な愛嬌を持つそれは一瞬で消えてしまったが。
「それでは、ごゆっくりとお楽しみください。御用の際はベルを」
一礼して下がっていく老人を見送るアークに、すでに緊張はなくなっていた。
「ねえ……どう?いい店でしょ?」
「はい。」
肘でつついて訊いてきたエマに、アークは素直に賛同した。
[小 説/RO小説/moe5]